大判例

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東京高等裁判所 昭和30年(う)940号 判決

被告人 五井孝

〔抄 録〕

論旨第一点について。

所論は本件には被害者がなく被告人の所為は横領罪を構成するものでないとして原判決の事実誤認を主張するものである。よつて訴訟記録を調査するに、原審第一回公判において検察官が弁護人の求めにより本件被害者は安田豊茂(本件ミシンの売主)であると釈明したこと、然るに被告人は右安田の使用人でも外交員でもなく又同人から本件ミシンの買主たる佐野八十一からミシン代金取立方の依頼を受けた事跡の存しないことは所論のとおりである。即ち被告人と右安田との間には本件ミシン代金の取立方につき何等委託関係が存在しないのであるから、たとえ被告人が原判示ミシン代金の内金壱万円を自己のため擅に着服したとしても右安田を被害者とする形態の横領罪の成立は到底考えることはできない筋合である。然しながら訴訟記録並びに原審において取調べた証拠を仔細に検討し綜合すれば、被告人は安田が昭和二十九年二月二十六日頃佐野にリズムミシン一台を販売するについてその斡旋をなし、同年同月下旬頃から同年三月中旬頃までの間に三回に亘つて右佐野から同人の依頼により前記安田に支払うべきミシン代金の内金壱万円を受取り保管中これを右佐野の委託に基ずき前記安田に引渡すことなくその頃館山市内で擅に自己のため着服横領した事実を肯認することができる。即ち本件においてはミシンの売主である安田を被害者とする横領罪は成立しないが、買主である佐野を被害者とする横領罪は成立するものというべく、従つて所論の如く本件には被害者が存在しないから横領罪は成立しないと論断することはできない。これを原判決について見るに原判決の措辞稍々明確を欠く嫌はあるが、判文自体とその挙示する各証拠を彼此対照し検討して見ると、原判決の趣旨とするところも亦当裁判所の見解と同様被告人は本件ミシンの買主である佐野から安田に支払方を依頼されて交付を受けた金壱万円を保管中右安田に引渡さず擅に自己のため着服横領した事実を判示しておるものと認めざるを得ない。然り而して原判決挙示の各証拠を綜合すれば(但し安田豊茂の検察官に対する昭和二十九年十月二十二日附供述調書中判示に符合しない部分は除く)原判示事実は優に肯認することができる。只前段説示の如く本件の被害者を買主である佐野と解する場合に公訴事実の同一性を害するおそれなきやの疑問が生ずるかも知れないが、本件において原審検察官と所見を異にし被害者を売主である安田とせず買主である佐野と認定しても、被告人が他人の委託を受け預り保管中の金員をその委託の趣旨に反し擅に自己のため着服横領した犯罪行為を追及する点においては何等変るところがないのであるから検察官の意図する起訴状記載の被害者と異る被害者を認定しても公訴事実の同一性を害するものでなく且つ被告人の防禦権に実質的不利益をもたらすものと論難することはできない。その他訴訟記録を精査するも原判決には所論のような事実誤認の過誤は存しないから論旨は理由がない。

註 本件起訴状に掲げる公訴事実は「被告人は二九・二・二六ミシン販売業Aより依頼されて同人所有のリズムミシン一台をM市内Bに対し販売の斡旋をなし同日より同年三月中旬までの間に右代金の内金として同人より三回に亘り合計金一万円を受領し占有中これをAに引渡さずその頃擅にM市内で自己の金として着服横領したもの」というのに対し原判決の認定した犯罪事実は「被告人はAが二九、二、二六Bにリズムミシン一台を販売するについてその斡旋をなし同月下旬から同年三月中旬までの間三回に亘つてBから右販売代金の内一万円を受取り保管しこれを売主であるAに引渡さず自己において擅に着服横領したもの」というのである。

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